あの山をこえて

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松本から上田に向かうルートはいくつかあって、
僕もそのいくつかを試したけれど、やはり定番は三才山トンネル。
車を走らせること1時間弱。実際、大した距離ではないが、
街から山に向かい、峠のトンネルをいくつか抜けて、今度は山から街に入る、という
その行程が、何度でも僕に小旅行気分をもたらしてくれる。

車の脇を流れ去る景色が、再び街のそれに変わる頃、僕の胸は期待で高鳴る。
何せ、そこには、僕の好きなものしかないのだ。

常田に移った haluta を初めて訪ねたときの衝動は、いまでも鮮明に覚えている。
大通りから数本入った先にあるというロケーション、
店舗に面した道から店内は覗けても、その正面らしきガラス戸は店の入口ではないという意外性、
扉、廊下、扉、という一見面倒な駐車場からのアプローチ、
狭い廊下を抜けて2つ目の扉を開けたとき、スッと広がる贅沢な余白を残した空間。
ひとめで見渡すことが叶うフロアに、一段下がった雑貨スペースと、階上バルコニー風の喫茶スペース。
その優れた劇場にも似た空間デザインに、僕の心は衝き動かされた。久しぶりの、衝動、だ。

店内に配された家具も、並べられた生活道具のひとつひとつも、本や雑貨のセレクトも、
そのどれもが、理想的なバランスだった。珈琲も、パンも、絶品だった。

好きなものしかない。

2回、3回、と回数を重ねても、その感覚は衰えなかった。むしろ、高まっていった。
次々に登場する新しい「好きなもの」たちに、
僕の「好きなもの」が、どういったものだったのか、改めて教えてもらっていたようにすら思う。
それまで「何となく好き」だったいくつかのイメージたちに、具体的な形を与えてもらったような快感。
今日は、どんな「好きなもの」たちが、待っていてくれるだろう。
上田の街が近づく度に、僕の胸は期待で高鳴った。

気がつけば、僕も haluta に通う立場から、
店舗は違えど(僕の職場は軽井沢で、その店もまた、大好きだ)
haluta に通う人たちを迎える側に、立ち位置が変わり、
また気がつけば、松本に戻り、自分の本屋を始めているが、
僕の「好きなもの」を選ぶ基準が、当時の常田店で形づくられていたことは、確かだ。

いまは次の演目が始まるまで、しばし休演中のようだが、
再びあの舞台が動き出すときには、きっと訪ねよう。
あの山をこえて、あの街に向かう道すがら、僕の胸はまた、
あの懐かしい高鳴りを思い出すだろう。

栞日|菊地徹
http://sioribi.jp

 

ABOUT AUTHOR

長野県松本市。心地よい暮らしのヒントを集めた本屋「 栞日 sioribi 」店主。